12月の欅句会2011/12/06

 兼題は年賀状に添える句と鴨。
 年賀状に添える句は2句提出して、一句は先生より特選。もう一句は先生を含め、3点頂いた。
 その句は年賀状が届くまでのお楽しみとしましょう。

 米子水鳥公園は夜見ヶ浜(弓ヶ浜)半島にあり、コハクチョウが有名だが、一番多いのは鴨である。
 夜見ヶ浜半島の特産品は白葱で米子市のユルキャラにもなっている。


 鴨葱で句にしたって、誰も採ってくれないだろうなと思いながら

     鴨渡る 夜見の半島 葱産地

 と詠んだが、リズム感が良かったのか、一般撰で3点頂いた。


 11月中頃を過ぎると、喪中の葉書が舞い込み始める。それを見ると、冬と年末が近づいたなと思い

     ちらほらと 喪中の葉書 冬初め

 同じ思いをした人が居て1点頂いた。

 秋には秋味という季節限定ののビールが発売され、毎年それを買って、最初の一杯は家内と分け合う。その後、それぞれ別の安いビール系飲料を飲むのだが、立冬の日、家内のビールが冬限定に変わっていた。

     立冬や 家内のビールは 雪ラベル

 私の句である事が見え見えだったためか、誰も採らず。



 日本海俳壇は、今日で5週連続不発。不調なのか、秋は皆さんが良い句を作るのか・・・・

 救いは9月の句会で高得点を獲得した句が11月末に行われた鳥取県俳句大会において選者の大谷正子さんの入選句に選ばれた事ですね。
 また、選者の松下冬葉さんの選には欅句会より入選句一句、佳作二句が選ばれていた。
 中村先生が投句を薦めてくれたお蔭です。

初雪&初積雪2011/12/09

 9日、米子は初雪と初積雪です。早速、家内の車の冬タイヤを買いに行きましたが、2時間待ちでした。


 道路はうっすらとシャーベット状。夜は夏タイヤではヤバイかも。


 芝生の上は完全に真っ白です。


 本日の米子の気温は
  最高気温 7.7℃(ただし未明の 0:21 に記録)
  最低気温 0.4℃(18:00 に記録、まだまだ下りそうです)
 

皆既月食2011/12/11

 昨夜は皆既月食。米子の天気は曇り時々雨。しかも、22時頃は降っていた。駄目だと諦めたが、念のため23時過ぎにベランダに出てみたら、星が見える。真上を探してみると薄く赤黒いものが見えた。
 早速、コンデジを三脚に載せ、カメラを真上に向けた。普通のカメラだとファインダーを覗く姿勢に苦労するが、バイアリングの液晶画面が役に立つ。広角で方向を確認して、ズームを最大に伸ばした。
 最初、1秒露出下が、写らない。2秒、3秒と上げて行く。5秒で何とか写せました。
 5秒も露出すると月が動き、手振れと同じ事になり、鮮明な画像となりませんでしたが、記念に載せる事としました。 


 まるで、安物の天体望遠鏡で火星を見た様な画像となってしまいました。雰囲気だけ感じて下さい。


日本海俳壇 11.12.132011/12/13

 今朝の日本海新聞に私の句が掲載された。6週間振りの入選である。

     築地松 疾風吹き抜く 神の旅

 旧暦の十月は神無月で出雲に全国の神様が集って会議をする。全て出雲大社で会議をするのではなく、旧暦十月二十六日に出雲市斐川町にある万九千神社で最後の会議を行った後、神々は帰国の途につかれる。これを神等去出(からさで)と言う。
http://www.genbu.net/data/izumo/tatimusi_title.htm

 11月の季語を見て神の旅という言葉を見つけ、松江に勤務していた時、神等去出の頃は荒れると聞いたのを思い出して一句浮んだ次第。日本海俳壇には葉書1枚に3句投句出来るのだが、入選するのはだいたい大穴。今回初めて本命が当たった気がする。

父の戦争の句Ⅲ2011/12/15

 昭和19年12月、二等輸送艦104号は船団を組んで横須賀を出航しレイテ島に向った。蒲郡出身の水兵の話によると途中の夜、三河湾に仮泊しているのに気付き、故郷の山影に涙したと言う。


 最後の寄港地は台湾の高雄。ここで、父は中学の後輩で、父の晩年に主治医となった人を訪ねている。その人は今生の別れと思いもてなしたそうだ。
 台湾とルソン島の間はバシー海峡。ここには日本からの補給をを遮断しようと米潜水艦が待ち構えていた。フリー百科事典のウィキペディアによると潜水艦ピンタドが12月12日の夜半、第12号輸送艦を撃沈し、第104号輸送艦と第106号輸送艦に損傷を与えたと書いてあった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%89_(%E6%BD%9C%E6%B0%B4%E8%89%A6)

 当時の水兵の話では、第12号輸送艦が撃沈されるのを見るや否や父は船団を離脱し全速力でルソン島に向ったと言う。
 機関将校の話では艦長の命令は全力前進ではなく極限前進だったと言っていた。それは車に例えればスピードメータのリミットを外し、回転数をレッドゾーンに叩き込んで走れという命令だ。機関室に居る将兵は何時エンジンが爆発するか気が気でなかったそうだ。

     爆雷光 夜の初潮の 底よりす

     警備とけ 紅茶腑にしむ 夜食かな

 ルソン島にはたどり着いたが、12月15日ルソン島サンフェルナンド沖で敵機の襲撃を受けた。父の話では音も無く襲って来て逃げる暇が無かったと言う。機銃掃射で艦橋に居た父は大腿部を打ち抜かれ重傷。父の両側に居た航海長と砲術長は即死。艦は火災を起こし火薬庫に火が回るのは時間の問題となり、総員退去の最期の命令を発し、父は艦と共に運命を共にする覚悟をしたそうだ。
 ところが先に上陸した将兵がカヌーや筏を調達し重傷者の救出に戻って来て、父も無理矢理救出されたという。

 父を含む重傷者は飛行機や病院船で内地送還となり、そのまま終戦を迎えた。しかし、無傷や軽傷の将兵は海軍陸戦隊に組み込まれ米軍との地上戦へと駆り出されて、その後の消息は不明ままである。

     戦ひは 妻には云はじ 桐火桶

     身一つに 苑の枯光 ありがたし

 父は昭和53年に亡くなったが、10年後、104号の生存者数名が父を探しあてて母を訪ねて来た。何故か、還暦を過ぎると無性に中学、高校の同期生に会いたくなるものだが、生死を共にした彼等にとってはそれ以上の想いがある様だ。父は彼らにとって高校野球の監督のような存在だったのであろう。
 数年後、生存者によって第104号輸送艦慰霊碑が三河湾に面した三ヶ根山の比島観音の脇に建立された。その傍に父の唯一の句碑が添えられている。

     夜を白く 爆音孕む 雲の峰